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福田逸の備忘録――残日録縹渺

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2010年 01月 04日

ニヒリズムと幸福と

 前掲記事を掲載した年末、恆存評論集の第十六巻の再校に目を通してゐた。この巻の中心は「否定の精神」だが、その一節を読んで少々驚いた。驚いたといふのも大袈裟かもしれないが、前掲、前ゝ掲記事を書きながら私が感じてゐたことを、もう一歩先に歩を進めて書いてゐるからだ。
〈ニヒリズム〉と題した短い節である。その一節が妙に腑に落ちる心持がした。「否定の精神」は短い節に題を付し、将棋倒しのやうに次へ次へと主題を変奏してゆく逆説的エッセイの連続で一冊の評論集になつてゐる。したがつて〈ニヒリズム〉の一節も前の一節を受けてゐるので少々分かりにくいかもしれぬが、以下に引用する。

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 〈ニヒリズム〉
 究極において幸福をめざさぬ思想はニヒリズムだ、と。さうにはちがひない。が、それはかういひあらためるべきだ――
 ニヒリズムの匂ひのしない思想は幸福を論ずる資格をもたぬ、と。
 人生は生きるにあたひしないと身にしみて感ずるときだけ、ぼくはたしかに幸福といふもののまぢかに身を置いたといふことを実感する――きつと、幸福とは、人間があるべきすがたで、あるべき場所に立つたときにしか現れぬものだからにさうゐない。
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 チェーホフに付き合つたこの二年の間、しばしば私の脳裏を去来してゐた言葉の一つが、まさにニヒリズムだつた。しかもニヒリズムを考へながら、空虚な人生といふものを捨てる気も諦める気も私にはこれつぽつちもなかつた。そのことに疑問を持たぬ私も暢気なものかもしれぬが、人生がどれほど意味のないものであつても、生きて行けばよいではないかといふ思ひの方が強かつた。さらにこの〈ニヒリズム〉流に言へば、「生きるにあたひしない」人生を舞台の上に造形しつつ、その造形された姿に限りない愛着を感じてゐた。生きるにあたひしない人生に安らぎさへ見出してゐたわけだ。

 つまり、私は限りなく「幸福といふもののまぢかに身を置い」てゐたと確信する。〈ニヒリズム〉の一節を読んだ時、まづそのことに思ひ至つて私は腑に落ちた心持を感じたのであらう。虚無と人生の無意味の先に私は一種の平安を感じてゐるやうに思ふ。だからこそ、チェーホフの作品に安らぎや赦しを感じるのではないか。戯曲の進行とともに切なさと並走する諦めの境地、そしてそれをも超え、日々をただ生きることの充実感さへ味はへる。それはそれで幸福と呼べるのではないか。この種の幸福のなんと純粋なことかとすら思ふ。純粋、つまり恋愛感情に伴ふ幸福感やら家庭の幸福やらとは無縁の、さらにそれより先にある幸福。自分独りの孤絶した幸福。この幸福は間違ひなく孤独に道を通じてゐる――

 「否定の精神」では、〈ニヒリズム〉を受けた次の節が実は〈孤独〉となつてゐて、その出だしは、前節を受けてかう始まる。もう一度、先の引用から続けて読んで頂きたい。

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 〈孤独〉
 人間があるべきすがたで、あるべき場所に立つたとき――それは孤独にゐるといふことにほかならない。
 そこでもつとも大事なこと――
 ひとはまづ孤独のうちにおのれの不幸を自覚し、しかも究極において、孤独においてしか幸福を発見する道はないと知るのだ。(後略)
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 なんといふ逆説と思ふ方もあるだらう。が、逆説でしか言ひ現はせない事柄もある。私が長々と書けば書くほど、否定の精神を否定し恆存を葬り去りかねない、このあたりで長広舌はやめておく。(引用原文は正字)

 蛇足。近頃、世の中を眺めて感ずることがある。これは勿論自分を含めて思ふことだが、年齢八掛け説といふのは本当かもしれない。つまり還暦の人間なら六十に八を掛けて四十八歳、まあ、五十歳前後の精神年齢だといふのだ。三十歳の大人のつもりが八を掛けると二十四歳、二十代の半ばといふところ。時代と共に人間が幼稚になり成長が遅くなるといふわけだ。が、どうもこの八掛け説も怪しい今日この頃、精々六掛けがいいところではないか。早い話が、チェーホフと二年越しで付き合つて私が還暦を越えて書いたことを、恆存は六六、三十六過ぎに書いてゐたわけだから……。

by dokudankoji | 2010-01-04 18:37 | 日常雑感


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