福田 逸の備忘録―独断と偏見

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2009年 12月 25日

(転載)チェーホフに嵌る

 前掲記事(チェーホフに思ふ)は十月に上演したチェーホフの一幕物二作品のパンフレットに書いたものだが、この舞台を観てくれた「正論」の編集者が、駄文を気に入つてくれて、同じテーマでエッセイを書けといふ。これが結構きつかつた。一度それなりに書き上げてしまつたもののバリエーションを新たに書くのは難しい。第一、気が乗らない。さう言つて、他のテーマで書きたいと頼んだが聞き入れられず(?)、何とか書いた。私にしては珍しく何度か手を入れた。以下はこのやうな事情で十一月下旬発売の同誌一月号に掲載されたもの。既に二月号が店頭に並び始めた頃合ひだらう、同じ唄を歌ふ気分で掲載し、最後に更に駄文を付す。

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  専門は一応英国演劇といふ事にならうが、私は若い頃からチェーホフが好きだつた。いつの頃からか五十歳になつたらチェーホフに挑戦すると決め、必然か偶然か自分でも分らぬが丁度五十になつた年から立て続けに『三人姉妹』と『ワーニャ伯父さん』を劇団昴のために訳した。だが、その時でさへ自分で演出に手を出すのはまだ早い、さう思つて逃げた。

 それが、これも偶然か必然か甚だ曖昧なのだが、昨年から二年続けてチェーホフの小品を演出するはめになつた。結果としては、還暦を過ぎて演出したのは間違ひではなかつたと思つてゐる。若ければ若いなりにチェーホフを理解する。歳を取ればその歳相応に理解する。ただ、間違ひなく言へるのは歳を取らぬと分らぬこともあるといふこと。あるいは分つてはゐても、若いうちに演出したり演じたりしても出せぬ味があるといふことだ。

 今年は『白鳥の歌』と『タバコの害について』といふ一幕物を組み合はせて上演したが、それはこの二作品に流れる通奏低音が同じ旋律を奏でてゐるからだつた。そのテーマを乱暴に一言で言へば、人生の悲哀あるいは人生の空しさだらう。どちらの主人公も年老いてをり、語られる言葉は、輝かしい青春の思ひ出や夢、過去の栄光や現在の孤独、そんな愚痴ばかりだ。そして、嘗ては「人間だつた」自分、今や「人間らしい姿形を失つてしまつた」自分への空虚な思ひと絶望である。つまり自分の未来にはもう何も残されてゐないといふ索漠たる思ひが舞台に漂ふ。

 この二つの戯曲に止まらない。『桜の園』などの主要な作品でも全編を覆つて、終幕に近づくに連れて殊に色濃く、この人生への絶望とそれを無理やりに抑へつけてでも生きて行かうとする人々の姿が描かれる。『ワーニャ伯父さん』でソーニャは「どうしようもない、生きていくしかない!(中略)来る日も来る日も、果てしない夜も、ぢつと我慢して与へられた試練に耐へていきませう」と祈るやうに語り、『三人姉妹』では長女オーリガが遠ざかる軍楽隊の奏でる音を聴きながら「いつか分るときが来るやうな気がする、何のためにあたしたちが生きてゐるのか、何のために苦しむのか」と呟く。チェーホフの作品はいづれも、このやうな切なくなるほど無意味で辛い人生を垣間見せる。にも関はらず、これらの作品は書かれて一世紀余り後の我々にも強く訴へる力を持つてゐる。なぜなのか。

 絶望的なまでに人生の深淵を覗いてしまつた登場人物たちが、それでも生きて行かうとする、そのことに、実は我々観客は魅了されてゐるのではないか。英雄の時代は遥か昔のことであり、現代は途轍もないほど愚昧で凡なる人間の世界である。時代も世相も時を経るに従つて脆弱で頼りなく、張り合ひも失はれて行く。それでも私達は生きて行かねばならない。この世に生きる人間は、恐らく一人の例外もなく意味のない人生を送つてゐるのだ。意識的にせよ無意識にせよ、我々はその事をどこかで強く感じてゐる。そこに恐ろしいほどの不安と空虚を感じてゐる。

 さういふ私達は、チェーホフの登場人物たちの姿を観て切ない会話を聴いて、人生といふものはどうであれ「生きて行くしかない」ことを直感的に会得し、救はれてゐるのではないか。意味のないちつぽけな人生でも、一日一日を確実に生き抜くことに意味があり、どんなにささやかで凡々たる人生であれ、そのささやかな日々とその積み重ねである一生に愛着すら持つてよいのだといふ安らぎを感じるのではあるまいか。
 
 観客は、日常の現実世界で薄汚れた自分でさへも、登場人物と共にさらに新たな一日を生き延びる事を赦され、明日を生きる力を与へられるのだ。私自身、改めて二年余りチェーホフと付き合つて感じてゐるのは、自分が赦されてあるといふ安堵感と安らぎなのである。つまりは私が自分の晩年を歩み出したといふ事なのだらうか……。

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 転載は以上。

 十月の舞台を観てくれた知人の一人が偶々上のエッセイを目に留め、パンフの原稿との相違についてメールで感想を送つてくれた。曰く、同じ着物が帯や小物でガラッと表情を変へるやうだと。パンフの原稿は演劇論、上記「正論」のエッセイは人生論だとも。自分の書いたものとは言へ、上手い比喩だと感心した。

 と、いい気になつて一人結構悦に入つてゐた……が、フと気が付いた。これは褒め言葉なんかぢやない。やんはりと忠告してくれたのだ。原稿料の二重取りは止めろ、と。(尤も、パンフは原稿料無しだから二重取りとも言へないかもしれないが。)美川憲一ではあるまいし、毎年「さそり座の女」で紅白に出るなといふわけか。

 こんな他愛のない事を考へてゐる昨日今日だが、(強引に話題を宣伝に移す)麗澤大学から出してゐる父の評論集の続刊が決まつた春頃から、改めて父の書いたものをあれこれ読み直してゐて感じることは、やはり、人間一つ唄しか歌へない(歌はない)といふことである。

 昭和十七年に父が支那を旅した日記がある。長くなるので、引用までは出来ないが、そこに書かれた事とまるで同じ情景(状況の描写)が昭和三十年頃の米国滞在中の日記にも出てくる。一方、昭和四十三年に書かれた戯曲「解つてたまるか!」の主題は既に戦前の日記(メモ)にもほぼ同じ形で姿を現す。

 文春版の全集に収録してゐない「否定の精神」も今回の続刊に入れることになつたが、六十年ほど前に書かれたこのアフォリズム的評論にしても、父は同じ事を後年よく書いてゐるし、口にしてゐたことにも通ずる。例へば常識に対する絶対的な信頼など。

 と、誤魔化して、自分が同じ唄で稼いだ原稿料のことはこの際棚上げにさせて頂く。大した額でもなし……(産経さん、失礼!)

 さういへば、別の知人が上記のエッセイを読んで、「しかし、チェーホフも読まれなくなつて行くのでせうね、ああ嫌だ」といふメールをくれた。同感である。
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by dokudankoji | 2009-12-25 17:55 | 雑感


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