福田 逸の備忘録―独断と偏見

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2009年 10月 13日

チェーホフに思ふ

 以下は今月の七日から十二日まで上演した「チェーホフ二題」のパンフレットに書いた演出ノートである。そのまま掲載する。

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 『タバコの害について』と『白鳥の歌』――どちらの登場人物も年老いてゐる。彼らが口にするのは愚痴であり、泣き言ばかりである。彼らが語る言葉には、何の未来もない。過去の夢、過去の栄光、かつては「人間だつた」はずの(今や「人間らしい姿形を失つてしまつた」)自分、そして、人生に残されたものは何一つなく、もはや人生は終はりを告げようとしてゐる……そんなせりふばかりを観客は聞かされる。この二つの戯曲ばかりではない、チェーホフの四つの代表作も終幕に向つて同じ旋律を奏でてゐる。人生への諦めと生活の空虚とを垣間見せる。一世紀前に書かれたこのやうな希望の見えぬ作品がなぜいつまでも、世界の国々で上演されるのか。

 答は思ひのほか容易な気がする。救ひのない人生を舞台上に見せられ――いや、人生といふものの救ひの無さを舞台上に観せつけられた観客は、そのことに拠つて実は救はれてゐるのではないか。

 絶望的なまでに人生の空虚を見つめる主人公達が、それを見つめた上で、それでもその日一日を生きていく姿に恐らく私達は救はれ安堵するのではないか。この救はれるといふ感覚こそ、実は演劇の第一のそして最終の存在理由だらう。本来のありやうだらう。

 つまり、観客を現実社会の苦悩や煩悶から解き放ち、観客にさらに次なる一日を生きるよすがを与へる。多かれ少なかれ現実に打ち拉がれてゐる観客に、それでも生きるべき一日がある――一日を生き延びる意味があると思はせる。芸術が、中でも演劇芸術が何らかの形でカタルシスを提供するものだとすれば、チェーホフの戯曲が与へてくれるのも、一種のカタルシスと言へるのではないか。ギリシャ悲劇にみるカタルシスほどに「高邁」なものではないかもしれない。死と再生の儀式といふほどに「壮大」なものではないかもしれないが、今日をして死なしめ、新たな一日を迎へる、さういふ意味ではチェーホフも同じと言つたら言ひ過ぎだらうか。

 つまり、チェーホフの戯曲に付き合つて、常に感じるのは、日常の現実世界で薄汚れた自分が、客席で登場人物の人生を共に生き、追体験することにより、許されるやうな感覚、如何に虚しくとも生きていくことそのもの、そのこと自体に意味を見出せるといつた感覚ではないか。さらに言へば、生きて行くことに何の意味がなくとも、それでよいのだといふ安堵と、そんな自分のちつぽけな日常と人生に愛着すら持つてよいのだといふ安らぎを感じさせてくれるのではあるまいか。

 パセティックではあつても悲惨ではない、悲哀を感じても悲痛とは違ふ、チェーホフの戯曲に我々が感じるのは、何とも言へぬ人間存在への哀しみの眼差しであり、そこに演劇の本質ともいふべき浄化作用を我々は感じてゐるといふのが、チェーホフを追ひかけ始めて十年余りの私の感想である。
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by dokudankoji | 2009-10-13 00:37 | 雑感


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